Life隊員たちの日常

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滋賀は竜王

弓の故郷にて

2017年01月23日

竜王町と弓:吉田氏の戦国史

1.日置弾正とは?

協力隊になって「弓道で地域おこし」と連呼していますが、

プライベートな時間ではずっと弓道史研究をしています。

最近は日置弾正正次(へき だんじょう まさつぐ)は誰なのか解明しようとしています。

この人が竜王町でいまの弓道の原型を作った人です。

(日本古義より)

よく分からないお腹の出た堅太りしたオジサンが、

ここ最近ずっと私の頭から離れません。

いたかどうかもよく分かっていない人です。

いなかったら困る、というわけでもないのです。

近代弓道発祥の地が竜王町であることは、日置弾正がいてもいなくても、揺るがない史実です。 

 

 

2.吉田家の活躍

竜王町は近代弓道発祥の地です。

日置弾正がこの町で新しい弓道を始めて、爆発的に新しい弓の引き方・考え方が普及していったからです。

ただ、いたかいないかよく分からないこの人物が凄かったわけではありません。

本当に努力をしたのは日置弾正の弟子の、吉田家の人たちだからです。

新しい技術を開発した先生が竜王に来た、これから新しい弓道をPRしていこう、

日置先生の考えを広めるんだ

と努力したのが吉田一族でした。

近代の弓道のはじまりは、先生と弟子の二つ名を合わせて日置吉田(へき よしだ)流と呼ばれていますが、

吉田氏は竜王町民、日置先生は赴任してきた天才教授のようなものです。

この二人の合作による日置吉田流が誕生したのは西暦でちょうど1500年頃、

そして、全国的に普及していったのは1560〜70年代のことです。

その間には1543年の鉄砲伝来があって、飛び道具の主力が弓から鉄砲へと代わる、

「飛び道具革命」がおきました。

弓と鉄砲は、だいたい1:50くらいの価格差がありました。

裕福な武将(もちろん信長など)はこぞって鉄砲を買い求めます。

そうすると困るのが弓術を家業とする吉田家でした。

新しい弓術を発明し、これから弓を世に普及していこうというのに、

飛び道具そのものが全く新しくなってしまうのです。

それこそ天地がひっくり返るような出来事が起きた時代、

すでに日置先生が亡くなって50年が過ぎ、

当時の教えを知る人も減り、

めげずに普及活動を続けたのは第二世代、第三世代の吉田一族でした。

 

 

3.大名たちを相手に…

この時期の吉田氏はスポンサー探しに必死になりました。

そんなとき吉田氏を支えたのは名の通った戦国大名たちでした。

豊臣秀次、秀頼、細川幽斎、江戸に入り徳川三代将軍など、

かなりハイレベルな全国クラスの大名たちです。

これはある種のビジネス的成功と捉えてもいいかもしれません。

吉田氏以外にも当時の弓術は流派が複数存在しました。

弓削(ゆげ)流、逸見(へんみ)流などです。

しかし流派の普及活動には消極的であったようで、当時の記録はほとんど残っていません。

それから500年経った今日から振り返ると、その時代、一気に大名たちのハートを掴んで全国区にのし上がっていった唯一の流派が日置吉田流弓術なのです。

 

 

ではなぜ吉田氏は大名たちを顧客に持つことができたのでしょうか。

それまで、戦場における弓の花形は「弓馬術(きゅうばじゅつ)」と呼ばれる、

馬術と弓がセットになった流鏑馬(やぶさめ)にあたるものが正統とされていました。

その伝統に反して、日置吉田流弓術は歩射(ほしゃ、かちゆみ)と呼ばれる、

馬に乗らない、地味で、悪く言えば戦場では足軽が引くような弓を開拓していきました。

まったく新しい弓術を発明した、と言えば聞こえはいいですが、

ようはそれまで誰も見向きをしなかった「下請け」の分野に目をつけたのです。

戦場における大多数の弓引きは草履やはだしで戦場を駆け、

立ったり伏せたりしながら弓を引く雑兵です。

弓は那須与一のような馬上の英雄が単独で戦況を決定できるものではありません。

弾幕を張って、盾の間から弓矢で敵を牽制する集団戦法が前提にあります。

この歩射をどう運用すれば弓の威力を最大限発揮できるか、

という技術論を徹底して研究するわけです。

足の開き方、弓の構え方、弓弦を引く距離、弓の持ち方など、

非常に細かくシステマティックに、です。

実は、吉田家は代々、弓馬術の名家として知られていました。

新しい流派を発明する以前の系図には「弓馬の名人なり」という記述が何代にも渡って続きます。

つまり一家の伝統である弓馬術を捨ててまで、吉田氏は歩射の練度を上げる重要性を説いたのです。

戦国大名たちはこの点を高く評価しました。

高尚な武芸とは一線を画した、戦争に勝つための弓術が生まれたのです。

 

 

4.それでも弓を…

こうして日置吉田流弓術は「新流」と呼ばれ、

1500年頃に考案されてから全国区の著名な流派となるまで、

およそ70年の時間を要しました。

近代弓道の原型を作った功績は吉田家にありますが、

やはりこのことは、鉄砲全盛期が完璧に訪れなかったことにも助けられています。

1:50という弓と鉄砲の価格差から、

当時の戦場では双方が混在して使用されていました。

吉田一族は弓馬から歩射に鞍替えしてまで弓を家業として奉じ、

あちこちの戦場で弓隊を活躍させてPRに心血を注ぎました。

とりわけ、永禄4年(1561年)の京都神楽岡の戦いでは松永軍の1万人を300人の吉田の弓隊で撃退したという記録が残っています。

諸大名に「おっ」と思わせ、ヘッドハンティングの機会を待つのです。

そのため吉田家の主だった名人たちは故郷の竜王町にいることがほとんどありませんでした。

父ちゃん、兄ちゃん、おじちゃんも各地を転戦し、結果的に大名に召し抱えられるという単身赴任の日々です。

このことが災いしてか、発祥の地に日置吉田流が根付くことが殆どありませんでした。

厳密に言うと、短い期間は存在していましたが、

吉田家の主君である佐々木六角氏が滅ぼされたことにより、戦国末期には竜王町川守にあった吉田家の屋敷も取潰されてしまいます。

六角氏を滅亡に追い込んだのは鉄砲の申し子、織田信長でした。

なんとも皮肉なことです。

 

 

5.戦国が終わり…

吉田一族は離散し、三重、埼玉、京都、広島、岡山、宮城、鹿児島などに移住していきます。

そのことが結果的に流派の普及を助けることにもなります。

吉田氏は江戸に入り弓術が武芸として見直されたことも手伝い、

各地である種ブランド化した「吉田流」の師範として重用されました。

とくに吉田源八郎重氏(一水軒印西、1561生~1638没)は竜王町の近隣、

今の東近江市の葛巻(かずらまき)の分家筋から吉田家に養子入りしましたが、

後年は徳川家康の弓術師範として将軍家に召し抱えられました。

竜王町の歴史でも、これほど大出世した人物はそうそういません。

源八郎は江戸で死去し、ついに竜王に戻ることはありませんでした。

これは他の吉田家の名人についても同様で、生誕地が竜王でも、

他所で出世してそのまま永住し故郷に帰らず(帰れず)という例が多いです。

いまこうして竜王町で弓道で町おこしをすることは、

ある意味、500年ぶりの回帰なのです。

 

6.そして再び日置弾正

最近調べているなかで浮かび上がってきたのは、

どうやら吉田家と始祖の日置弾正の日置家は縁戚関係にあったのではないかということです。

これまで日置弾正は単独の名人として、

突然ふらっと吉田家の門を叩いた流れの侍のような人物として知られていました。

食うに困った弓の名人が庇護を求めた、という

後年の名人たちにも似たような話です。

しかし、日置家という家は存在しており、

弓の名人が数代に渡って存在していたことも分かってきました。

射術に優れた日置家、

PR戦略に優れた吉田家、

両者が合わさって戦国の中で一流の流派を立てたのではないかというのが私の仮説です。

夜な夜な論文を書いたり、ノートをまとめたり、

結局プライベートでも弓道から離れられないわりに、

最近はあまり弓を引けていないのが皮肉です。

協力隊でいる間に少しは弓道史の研究にも貢献できればと思っています。 

論文が出来たら、ここでも紹介したいと思います。

投稿者 中村匡希 | コメント(7)
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この記事に対するコメント一覧

初めまして、長崎県島原市で弓を楽しんでいるものです。
日置弾正との関わりを良く調べておられますね。
今後も楽しく見させてください。
吉田俊生

投稿者 吉田俊生 | 2017-01-24 09:10:52

吉田さん、ありがとうございます。
日置弾正は弓道史の長年の謎ですね。
子孫はどうやら亀岡にいたようです。
今後も発信を続けてまいります。

投稿者 中村匡希 | 2017-01-24 14:45:54

はじめまして!東日本大震災の津波で自宅が被災しましたが、このことがきっかけとなり自宅にあった古文書類を東北大や仙台市博物館並びに東北学院大の黒須先生に見ていただきましたところ、伊達家の弓の指南役をしていたことが判明しました。現在、黒須先生とともに伊達の日置流印西派として青葉祭にでることをきっかけに伊達の日置流印西派として再興する活動中です。今後よろしくお願いします。

投稿者 吉田清明 | 2017-01-24 23:07:08

こうしてインターネットで御子孫の方と交流できて出来て幸せです。

黒須先生も指摘されていることですのでご存知かと思いますが、伊達政宗の父の輝宗は竜王町の吉田家から側室を迎えたと言われています。おそらくこのことがキッカケとなって、伊達藩で吉田氏が弓術を広める地盤が出来たものと思われます。

不思議なことに伊達藩には日置吉田流、日置流印西派、雪荷派の三つが伝わっています。正統継承者とされる日置吉田流の吉田助左衛門重隆はなんと4000石という破格の待遇で指南役になりました。新流弓術のお家元ともなると信じられないほどの高給取りになれたようです。今で言う4億円ほどでしょうか。

弓術を家康に教えた吉田源八郎の養子も仙台藩に18歳のときに迎えられています。それでも577石ですから、日置流弓術のネームバリューというのは相当にあったようです。

私の生まれ故郷も東北です(山形)。ぜひ仙台でも復興できるよう応援しております。

投稿者 中村匡希 | 2017-01-25 01:20:30

ご存知でしたら、不要な情報と思いますが
吉田家はいまだに、竜王町近郊に住んでみえますよ
賤ヶ岳の合戦以後は、名前を変えて武士を廃業していたそうです
私も、会社の先輩から弓道をしているといったところ
本家も吉田の名前で戦国時代までは弓の師範をしていたそうです
詳細までは聞けませんでしたが、蔵に古い書類あるかもとのことです

投稿者 絞家染太郎 | 2017-05-20 19:30:38

返事が遅れまして失礼いたしました。
竜王町の川守には吉田さんがお住いです。もしかして近郊ということは親戚の系統の方がいらっしゃるということでしょうか?よろしければ情報をいただけたらと思います。川守の吉田家には家系図が、佐々木厳秀の時代からのものが残っております。

投稿者 中村匡希 | 2017-06-01 12:29:14

はじめまして。

吉田巌秀氏のことを調べていて、こちらに参りました。川守の吉田家の系図に関して言及なさっていらしたので、質問を致したく思いました。

巌秀のお父様やお母様がどなただったのか、の記載もありますでしょうか?
もしも差支えがないようでしたら、情報をいただけますと大変にうれしいです。どうぞよろしくお願いいたします。

投稿者 田川恵理子 | 2017-12-06 12:55:37

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中村匡希
活動地域:
滋賀県蒲生郡竜王町
趣味 :
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